(1)探検の歴史
我が国で初めて南極点を目指したのは、白瀬矗が率いる「白瀬南極探検隊」である。白瀬隊はロス棚氷の北東端の鯨湾から上陸し、1912年(明治45年)1月28日に、南緯80度05分に到達し、付近一帯を大和雪原(ゆきはら)と命名した。白瀬隊は南極点に到達することはできなかったが、無事に日本に帰還し、我が国に南極に関する多くの知識をもたらした。
ノルウェーのアムンゼン隊が世界で初めて南極点に到達したのは1911年(明治44年)12月14日であり、イギリスのスコット隊が到達したのは1912年(明治45年)1月17日である。このことから明らかなように、白瀬隊は世界の探検隊に伍してほぼ同時期に南極に挑んでおり、南極探検の歴史に名を残した。これにちなんで、現在の南極大陸の地図には、白瀬海岸、白瀬氷河という地名が記載されている。
(2)南極地域観測事業発足の経緯
1957年(昭和32年)7月から1958年(昭和33年)12月までの18ヶ月間にかけて国際地球観測年(IGY:International Geophysical Year)(第3回極年)が実施された。これは、64カ国が参加して行われた大規模な国際的学術調査であったが、これを契機として、南極は、恒久的、組織的な調査・研究を行う「観測の時代」に入ったと言われている。我が国の南極地域観測事業もまた、これへの参加を契機として開始された。
この国際地球観測年は、実質的には、過去2回実施された国際極年(International Polar Year)の拡張であった。第1回極年は1882年(明治15年)2月から1883年(明治16年)7月、第2回極年は1932年(昭和7年)8月から1933年(明治16年)7月に行われており、第3回極年については、50年後の1982年から1983年と予想されていた。しかし、科学の発達が目覚しく、観測方法・観測機械の進歩、精度の向上も著しく、半世紀も先に延ばすことはできないと考えられるようになり、1952年(昭和27年)1月に開催された国際学術連合会議(ICSU)において、第2回極年の25年後に当たる1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて第3回極年を実施することが提唱され、加入各国機関に対し参加要請が行われた。第3回極年においては、前2回が気象及び地磁気分布等の観測が最大の目標であり、北極地帯を中心に観測することに重点が置かれていたのに対し、観測地を極地に限らず、熱帯も中緯度地方も含め、観測項目も地球物理学全般にわたって実施しようとするものになった。
日本学術会議は、この国際学術連合会議(ICSU)の要請を受けて、第3回極年研究連絡委員会を設置し、ICUSに設けられた国際地球観測年特別委員会との連絡及び国内の連絡の中核とした。しかし、国際地球観測年特別委員会において、観測地が極地に限られず、赤道、中緯度も含め全面的なものとするようになったため、日本学術会議は、昭和29年1月に、第3回極年研究連絡委員会の名称を、国際地球観測年研究連絡委員会へと改めた。
我が国は当初、赤道付近での観測についての主責任国となることを要請されており、この時点で日本学術会議は政府に対し、事業の重要性を述べ、わが国の実施計画が有効に実現できるよう、各観測機関が計上する予算について特別な考慮を払うよう勧告した(昭和29年4月)。政府は、昭和29年5月13日、第64回科学技術行政協議会においてこの勧告について審議し、文部省の測地学審議会が関係機関の調整に当たることとし、文部省が中心となって所要の予算措置について大蔵省と折衝をすることとなった。しかし、この時点では未だ、我が国が参加する国際地球観測年計画には、まだ南極地域観測は含まれていなかった。その後、国際地球観測年特別委員会の下に設けられた第1回南極会議(昭和30年7月)において、日本に対して南極地域の観測を行ってはどうかとの勧告がなされた。このため、日本学術会議の国際地球観測年研究連絡委員会は、日本の南極地域観測への参加について政府首脳と協議しつつ検討を行い、昭和30年9月の第2回南極会議において日本側代表から、南極地域観測に参加する旨を申し入れた。その結果、各国から日本に南極地域観測への参加が要請されることとなった。日本学術会議は、国際地球観測年研究連絡委員会の提案に基づき、昭和30年9月29日、政府に対し、関係各省庁の協力の下に観測実施の具体策を樹立するため万全の措置をとるよう要望した。
これを受けて、政府は、昭和30年11月4日の閣議において、我が国も南極地域における地球物理学的諸現象観測に参加すること及び南極地域観測統合推進本部を文部省(現在の文部科学省)に置くことを決定した。
(3)第1次南極地域観測から第6次観測終了までの経緯
南極地域観測事業はもともと国際地球観測年への参加のために開始されたものであることから、国際地球観測年の終了に伴い観測事業も終了することを予定していた。
予備観測隊(第1次観測隊)は「宗谷」で出発し、昭和32年1月29日、オングル島に上陸し、昭和基地を開設して、11名の越冬隊を成立させた。国際地球観測年本観測隊(第2次観測隊)は、悪天候と氷にはばまれ「宗谷」が昭和基地に接岸できず、越冬隊を成立させることに失敗し、また、樺太犬15頭を昭和基地から船に収容することができず残置する事態となった。このため、日本学術会議は昭和33年4月、本事業のさらに2ヵ年の継続実施を政府に要望した。政府は昭和33年7月11日に本事業の継続を閣議決定したが、この時の了解では第3次、第4次に越冬観測を行い第5次観測をもって終了することが予定されていた。 第4次観測においては、越冬隊員がブリザード(雪嵐)のため作業中に行方不明となり、観測史上初めての犠牲者を出す不幸な事件が生じた。第5次観測では越冬を行わず基地を閉鎖し本事業を終了する予定であったが、日本学術会議は昭和35年5月に再び2カ年の継続を政府に勧告した。その際、その趣旨の中に、1.2ヵ年の継続とともに、2.南極地域観測で得られた科学資料の整理、保管、研究並びに南極地域に関する総合的研究を実施するため恒久的な機関を設置すること、3.かつこれを中心に、南極条約の精神に基づいて、南極地域の平和的利用のために協力する体制を樹立すること、が掲げられている。 この勧告に対し、南極地域観測統合推進本部は、1.本事業の体制は国際地球観測年に参加しようとした臨時的、応急的なものであること、2.「宗谷」は船齢が古く修理に多額の費用を必要としていること、3.空輸に不可欠なヘリコプターのパイロット要員に不足をきたしていること、などからさらに2ヵ年の継続は困難であり、第5次観測は越冬し、第6次観測をもって打ち切らざるを得ないと判断し、昭和35年9月の閣議了解により第6次観測をもって打ち切ることを正式に決定した。
これにより、昭和37年2月8日、昭和基地の閉鎖及び人員、資材の撤去を完了し、4月17日の「宗谷」の東京港帰着をもって南極地域観測事業は一旦打ち切られた。
(4)南極地域観測事業再開の経緯
昭和37年2月、昭和基地閉鎖の報告を受けて、衆議院科学技術振興対策特別委員会は南極観測再開を決議した。また、日本学術会議は、同年5月「南極地域観測の再開について」として、「南極地域観測事業を恒久的国家事業として取り上げ、再出発させる方針を速やかに決定されたい」旨政府あて勧告した。 南極地域観測統合推進本部は、事業終了後も、昭和35年9月の閣議了解により「その後の南極地域観測の実施および観測によって得られた資料の整理、保管、研究等の措置については、南極地域観測統合推進本部が当たるものとする」とされていたことから、これに従い昭和36年3月「南極観測将来問題小委員会」を設けて、これらについての検討を開始していた。昭和37年5月には、同小委員会は13回にわたる会合での検討を経て、南極地域観測再開の必要性を確認し、そのための措置として、1.新砕氷船及び輸送用航空機の新造と要員の確保、2.恒久的体制としての本部の設置、3.実施の中核機関としての国立科学博物館極地課の拡充を図るべきとの結論を得た。
こうした諸般の状況等を勘案し、南極地域観測統合推進本部は観測再開に向けて準備を始め、昭和40年再開を念頭に置いて、昭和38年度予算の概算要求案の作成や観測再開の成否を決定する輸送担当機関の問題について関係各機関との協議に入った。
その後、昭和37年11月には、自由民主党が党の重要施策の1つとして、南極地域観測の再開を掲げるに至った。
このような経過を経て、昭和38年度予算に南極観測再開準備費5,000万円が計上され、準備活動が本格的に進められることとなった。
再開準備の中で問題となった輸送担当機関については、海上保安庁では要員、特に航空要員の確保に困難があることから、防衛庁の協力を得ることについて検討が進められた。昭和38年8月の第22回南極地域観測統合推進本部総会で、輸送担当機関を防衛庁とすることに決着し、同年8月20日の閣議決定により「昭和35年9月2日の閣議了解により打ち切られた南極地域観測は、諸般の準備完了をまって再開するものとする。これが実施のため、常時観測体制を確立することとし、輸送(船舶、航空機等によるものをいう)は運輸省の協力を得て防衛庁が当たるものとする」とされた。
防衛庁が南極地域観測に協力するには自衛隊法の改正が必要とされた。このため、自衛隊法に「自衛隊は、長官の命を受け、国が行う南極地域における科学的調査について政令で定める輸送その他の協力を行う」の1条を加える法律改正案が提出され、第47回臨時国会で可決成立(昭和39年12月)した。
新南極観測船(砕氷艦)については、名称は一般公募を行い総数44万余通にのぼった応募の中から選考し、「ふじ」とすることに決定され、昭和40年3月18日、皇太子、同妃両殿下ご臨席のもとに進水、7月15日に完成した。 再開後の観測実施方針は、1.学術的意義及び国際協力の立場から必要とされる定常的な観測を確保するとともに、学術的研究観測を極力推進すること、2.研究プロジェクトは年次的に重点を定めて実施することとし、実施体制としては、観測は1.定常観測と研究観測に大別し、2.定常観測については恒久的に継続実施し得る業務体制を確立し、研究観測については、その門戸を広く学界に開放し高度の学術研究を行い得る体制とすることとされた。
第7次観測隊は、昭和40年11月20日「ふじ」で出発し、昭和40年12月31日に昭和基地に一番機を飛ばし、翌年1月3日から本格的な空輸を開始し、昭和基地の再開作業を進めた。こうして2月1日には、18名から成る第7次越冬隊を成立させ、各国の南極基地に対し昭和基地再開及び日本の南極地域観測再開を通報した。
(5)その後の状況
第7次観測隊が昭和基地を再開してから、今日まで我が国は毎年欠かさず観測隊を派遣してきており、現在第44次隊が越冬を行っている。また、第45次隊の訓練が国内で開始されている。
昭和基地再開後、第9次越冬隊の極点調査旅行隊が史上9番目で南極点に到達した。第12次隊は「みずほ観測拠点(後に基地となる)」を設置し、第15次隊を送り出した1973年(昭和48年)には国立極地研究所が創設され、第25次隊のときには現在の観測船(砕氷艦)「しらせ」が就航(1983年(昭和58年))し、第27次隊は「あすか観測拠点」を設置し、第37次隊は「ドームふじ観測拠点」を設置するなど、これまでに着実に観測施設を拡充し観測活動を発展させてきている。
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