ArCS 北極域研究推進プロジェクト

ArCS通信

平成28年度若手研究者海外派遣報告:神戸の喫茶店から極北のスピッツベルゲン島を想う

私は今、歴史ある港町、神戸の古びた喫茶店にいます。戦後間もない昭和の気配を漂わせる古めかしい張り紙が所狭しと壁に貼られた薄暗い店内には、レコードから流れるJAZZの音色が、まるで時の流れを止めるかのように優しく響いています。私は今年1月10日まで、ArCS 若手研究者派遣事業の支援を得て、極域の研究を専門に行うオランダ北部のフローニンゲン大学 Arctic Centre に、9ヶ月半に渡って留学していました。30年近くに渡って北極域の渡り鳥の研究を行っている Maarten J.J.E. Loonen 博士の研究室に籍をいただき、昨夏には Loonen博士率いるオランダの調査隊にも同行して、北緯79度を誇るノルウェー領のスピッツベルゲン島(スバールバル諸島)にあるニーオルスン基地に2ヶ月もの期間滞在し、野外調査を行いました。目をつぶれば今この瞬間にも、スピッツベルゲン島の壮大な風景が、鮮明に脳裏に浮かび上がります。まるで嘘のような、美しすぎる夢のような、非現実的で掛け替えのない体験でした。

オランダ、およびスピッツベルゲン島での私の研究課題は「貝類は空を飛ぶか?:渡り鳥による貝類の遠距離移動分散仮説の検証」でした。スピッツベルゲン島での調査・研究にあたり、自身の研究内容を登録したResearch in Svalbard(RiS)というウェブサイトには、「Can snails fly in the sky?」と英題を記載しました。現地で世界各国の研究者と語り合う中で、「何の冗談かと思った」とコメントをもらったのは1度や2度ではありません。確かに一見馬鹿げた課題のようですが、背景には科学的に裏付けされた十分な動機があります。最も重要なこれまでの知見として、鳥類に食べられた貝類が消化器官を生きて通過し、生きたまま糞として排出され得ることが実験的に示されています。特に小型の貝類では、鳥類に捕食されるときに丸呑みにされるため、丈夫な殻に守られて消化を免れ得ることが近年明らかになりました。この発見を機に、移動能力が極めて低いはずの貝類が鳥類の力を借りて受動的に非常に長距離を移動している可能性が、まことしやかにささやかれるようになったのです。

まるで違う惑星に降り立ったかのような馴染みのない環境を前に、調査はなかなか計画通りに進みません。見ず知らずの土地で、想像の及ばない自然を相手にしているのだから、当然のことです。それでも2ヶ月間、懸命に課題に取り組んだ結果、いくつもの研究成果を上げることができました。これ以上は望めないほどに、極めて生産的な日々を送ることができたと思います。スピッツベルゲン島での夜のない夏を終え、オランダやドイツで過ごした秋から冬にかけての期間には、総勢10名にも及ぶ国際的な共同研究者の協力や議論を経て、最終的に公表するまでの計画を練り、スピッツベルゲン島の貝類の種同定やDNAを扱った分子実験などを行い、着々と実行に移していきました。

そして私は今、神戸にいます。兵庫県立大学の共同研究者を訪ね、スピッツベルゲン島で採集した研究試料のDNAを解析する分子実験を行うためです。私の担当する実験を昨日無事に終え、見た目はただの透明の液体になったDNA試料を、共同研究者の手に委ねてきました。今年の夏頃までには何らかの結果が出ると思うと、とても楽しみです。重要な仕事がひとつ、ひとまずは私の手を離れ、古びた喫茶店でうっとりと、気だるいJAZZの音色に耳を傾け、夢のように美しいオランダやスピッツベルゲン島での日々の記憶を瞼の裏に想い浮かべて、一人でニヤけているところです。

オランダ、およびスピッツベルゲン島における滞在の出来事の一部は、本ArCS通信への過去の寄稿文など、いくつかのウェブサイトに記載されています。特に Loonen 博士によるスピッツベルゲン島での日常を記した記事(The Netherlands Arctic Station)には、島での研究の様子が丁寧に書かれているので、是非ご覧いただきたいと思います。

ArCS通信 - スピッツベルゲン島での野外調査

大阪大学欧州拠点 HP - 2017年12月1日のニュース

Research in Svalbard Database(英語ページ)

The Netherlands Arctic Station(英語ページ)

GIA Newsletter - University of Groningen, The Netherlands(英語ページ)

森井 悠太(北海道大学)


オランダの調査隊


スピッツベルゲン島を訪れたホンケワタガモ(雄)の群れ