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第1報 (12月4日)

 南極で行動中のオーストラリアの観測船「オーロラ・オーストラリス」が南緯69度11分、東経75度の氷海においてプロペラの故障が発生し、自力で動くことができないため海氷に閉じ込められています。現場は、デービス基地から140kmの距離で、周辺には氷厚1mの海氷の上に3mの雪が覆っているとのことです。オーストラリアの隊員は、ヘリコプターでデービス基地やモーソン基地へ移動し観測活動をしているとのことです。
 1998年12月4日、南極地域観測統合推進本部(本部長:文部大臣)は、オーストラリア政府からの要請に基づいて、「しらせ」を「オーロラ・オーストラリス」の救援に向かわせることを決定しました。「しらせ」は、オーストラリアからの曳航船の到着に合わせて救援を行ないます。


 

 
  「オーロラ・オーストラリス」の概要 「しらせ」の概要
1.全長 94.80m 134.0m
2.全幅 20.30m 28.0m
3.トン数 7,880トン(排水量) 11,600トン(基準排水量)
4.乗組員 24名 174名
5.観測隊員 57名(定員109名) 66名(観測隊員60名、オブザーバー6名)
6.その他 所有者 Antarctic Shipping Pty Ltd
貸 主 P&O Ausutralia pty Ltd
運航者 P&O Polar Ausutralia pty Ltd
 
 
 

第2報 (12月10日)

 「オーロラ・オーストラリス」救出の任を受けた「しらせ」は、12月8日午前0時26分(日本時間8日午前2時26分)、予想外のオーロラが輝く空の下、南緯55度を通過しました。同日夕刻には今シーズン初めての氷山に遭遇し、隊員・乗組員一同、南極圏に入ったとの思いを強くしています。
 予定されていた海洋観測をこなしつつも、一刻も早く「オーロラ・オーストラリス」のもとに近づくため、「しらせ」は速力を速めて進んでいます。すでに「しらせ」の茂原艦長と同船のP・ビアスン船長との間で、直接、詳細な打ち合わせが進められております。
 

第3報 (12月14日)


救援のため砕氷行動中の「しらせ」(手前)と「オーロラ・オーストラリス」
 


海氷にビセットされている「オーロラ・オーストラリス」
 

第4報 (12月14日)


曳航索のため接近する「しらせ」(手前)
 


曳航索の取り付け作業中の「しらせ」(手前)
 

第5報 (12月14日)

 「しらせ」は12月13日午前4時45分(日本時間13日午前8時45分)、プリッツ湾で「オーロラ・オーストラリス」と接近しました。「オ号」の周囲は氷厚2m、積雪50cmの海氷に囲まれていたため、曳航作業に備え同船周辺の砕氷を始めました。同日午前7時38分(日本時間13日午前11時38分)、約1.5km離れた「オ号」から航海リーダーのスザンヌ・ストルマンさんらを乗せたヘリコプターが飛来しました。彼女らは満面の笑みを浮かべて「しらせ」に降り立ち、乗務員や観測隊員の歓迎を受けました。続いて「しらせ」から9名の乗組員が同船に派遣され、機関の故障状況を調査するとともに、今後の方針を検討しました。

曳航
その結果、「オ号」は氷海内での自力航行は不可能であるが、開放水面に出れば自力航行できる可能性があることが分かりました。しかし、同船の北方500mにハンモック氷域が東西に伸びており、チャージングしなければ航行できないため、同船周辺の砕氷及び北方への水路確保(約5マイル)のための砕氷を行い、その後、曳航を試みることになりました。
 午前10時50分(日本時間13日午後2時30分)、2名の「しらせ」乗組員が連絡係として同船に派遣され、「しらせ」は砕氷航行を始めました。その後、午後5時頃徐々に同船に接近し、曳航ロープ(直径約10cm、長さ約200m)の接続作業に入りました。接近するにつれ同船の甲板上のオーストラリア観測隊員たちの表情がはっきりわかるようになりました。「しらせ」に交換科学者として乗船しているクリス・カーソンさん(シドニー大学)は、そのなかに友人の姿を見つけて大声で挨拶を交していました。
 両船とも上部甲板に集まった観測隊員らが見守るなか、曳船が開始されました。非常にゆっくりなため、なかなか動いているようには見えません。しばらくたって、ようやく、かすかに動きつつあるように感じられた時になって初めて、隊員からため息がもれました。しかし、それもつかの間、約30分後、ピーンと張っていたロープが切断してしまいました。ただちにやり直し作業を行ない、曳航を再開しましたが、今度はロープが氷盤に引っかかり中止しました。そして、再開をしても小氷盤のために「オ号」は動きません。また、曳航を中断しました。氷海での曳航が如何に困難かを感じさせる出来事が続きました。すでに午後8時半、白夜とはいうものの気温が低下してきました。同船の周囲の氷が締まりロープを切る恐れがあるので、「しらせ」は曳航作業を一時中断することにしました。その後、「しらせ」は周囲の氷盤を砕くため昨夜から夜通し、砕氷航行を続けています。

曳航索の取り付け作業
 

曳航
 

最終報 (12月18日)

 12月18日午前1時(日本時間同日午前5時)、「しらせ」は「オーロラ・オーストラリス」を氷のない海まで無事救出しました。「オ」号はプロペラを応急修理して、氷のない海であれば自力で航行できるようになったため「しらせ」はオーストラリア側の救援のタグボートに同船を引き渡す前に救援活動を終了し、中断していた南極観測支援活動に復帰しました。昭和基地の東約500kmの位置にあるアムンゼン湾での地学野外調査隊の支援活動を行った後、第39次越冬隊の待つ昭和基地へ順調にいけば今年末に到着する見込みです。12月3日にオーストラリア政府から救援の要請を受けてからほぼ2週間後に無事成功したこととなります。12月13日早朝に「オ」号付近に到着した「しらせ」は、周囲の厚さ2m以上の氷を砕き、約315kmの距離を52時間55分にわたって、砕氷しながらロープで曳航するという困難な作業を行いました。16日昼頃、海氷がまばらになった地点で「オ」号は自力で航海を始めましたが、砕氷する力が足りないため、「しらせ」が先にたって水路を開きつつ 北上していました。18日にようやく氷縁を離脱したものです。
 
 
今回の救援活動ついて、コメントです。
オーストラリア南極観測隊航海リーダーのスザンヌ・ストルマンさんと
「オ」号船長のピーター・ピアスンさん:
「日本隊の方々が自分たちの仕事を中断して、わざわざ救援に駆けつけてくださったことにとても感謝しています。予定を1日以上も繰りあげて来てい ただき、大変ありがたく思いました。」

茂原艦長:

「乗組員一同が本当によくがんばってくれました。そのうえ、天候にも恵まれて幸運でした。」

白石観測隊長:

「今回の救援活動により、観測隊の当初計画に多少の影響はあったものの、こうした国際協力は南極ではごく当たり前のことです。むしろ「しらせ」乗組員による「ポーラーマンシップ」というべき行動を終始目の当たりにすることができた観測隊員は皆感激しています。夏とはいえ、南極の自然の厳しさを見たことによって、自分たちのこれからの任務の困難さを改めて実感しました。」
 
日本とオーストラリアに関係する観測船の救援の話題を紹介します

 まず、初めての南極観測の時のエピソードです。1957年2月、第1次越冬隊を昭和基地に送り込んだ「宗谷」は北上の途中で密群氷に阻まれ航行が困難になりました。この事態に対して南極本部は米国及びソ連(現ロシア)に「宗谷」の救援の要請を行ないました。2月28日、運良く氷状が好転する兆しをとらえ、何とか「宗谷」は自力で脱出を試み外洋まで5kmの地点にたどり着いた時、ソ連の「オビ」号が現われ水路を広げてくれたことにより、「宗谷」は氷海に脱出することができました。当時、新聞や映画ニュースなどで大きく取り上げられ、50代以上の世代では、「オビ」号の名前を記憶している人が多いと思います。また、「宗谷」と「オビ」号の話題は、戦後史(第二次世界大戦以降)に残るエピソードとして語り継がれるのではないかと思います。

 2つ目は、日豪の話題です。1985年10月末、オーストラリアの観測船「ネラ・ダン」(傭船)がビセット(氷に閉じ込められる)されるという報がオーストラリアの南極用貨物船「アイスバード」から、すべての南極基地あてに流れました。その後、「アイスバード」が救援に向かったものの、4m以上の厚い氷に阻まれ「ネラ・ダン」に近づけない状況が続いていました。12月に入りオーストラリア政府からの要請に基づいて南極本部は、フリーマントルに寄港中の「しらせ」を救援に向かわせることを決定しました。12月13日、「しらせ」は「ネラ・ダン」がビセットされている現場近くの氷縁に到着し、さっそく救援を開始しました。12月16日、「しらせ」は「ネラ・ダン」をロープで曳航し、氷海を離脱させることに成功しました。

 
 
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