日本とオーストラリアに関係する観測船の救援の話題を紹介します
まず、初めての南極観測の時のエピソードです。1957年2月、第1次越冬隊を昭和基地に送り込んだ「宗谷」は北上の途中で密群氷に阻まれ航行が困難になりました。この事態に対して南極本部は米国及びソ連(現ロシア)に「宗谷」の救援の要請を行ないました。2月28日、運良く氷状が好転する兆しをとらえ、何とか「宗谷」は自力で脱出を試み外洋まで5kmの地点にたどり着いた時、ソ連の「オビ」号が現われ水路を広げてくれたことにより、「宗谷」は氷海に脱出することができました。当時、新聞や映画ニュースなどで大きく取り上げられ、50代以上の世代では、「オビ」号の名前を記憶している人が多いと思います。また、「宗谷」と「オビ」号の話題は、戦後史(第二次世界大戦以降)に残るエピソードとして語り継がれるのではないかと思います。
2つ目は、日豪の話題です。1985年10月末、オーストラリアの観測船「ネラ・ダン」(傭船)がビセット(氷に閉じ込められる)されるという報がオーストラリアの南極用貨物船「アイスバード」から、すべての南極基地あてに流れました。その後、「アイスバード」が救援に向かったものの、4m以上の厚い氷に阻まれ「ネラ・ダン」に近づけない状況が続いていました。12月に入りオーストラリア政府からの要請に基づいて南極本部は、フリーマントルに寄港中の「しらせ」を救援に向かわせることを決定しました。12月13日、「しらせ」は「ネラ・ダン」がビセットされている現場近くの氷縁に到着し、さっそく救援を開始しました。12月16日、「しらせ」は「ネラ・ダン」をロープで曳航し、氷海を離脱させることに成功しました。
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