活動報告

宮川 萌(みやかわ めぐむ)
北海道伊達開来高等学校

教員南極派遣プログラムを知ったのは、かれこれ10年以上前になる。

職員室にはさまざまなチラシが回覧という形で周知されるが、その中に南極で授業をしないかという誘い文句のチラシがあった。見た瞬間、すぐに目を奪われ、「何だこれは、行きたい!」と強く感じたことを今でもよく覚えている。すぐに管理職に相談したが、当時勤めていた学校は小規模かつ地方の学校だったため、代替教員が見つからないという理由で結局応募は叶わず。しかし「南極」というフレーズが自分の頭の中から消えることはなかった。

数年後、転勤でもう少し大きな学校へ異動した。すぐに管理職に南極行きの希望を伝えたところ、受験の許可をもらうことができた。しかしここからが困難の始まり。このプログラムの応募には、選考のために南極授業の実施プランを求められる。斬新な視点や自分の特色を盛り込んだようなものを期待されているのだが、そうしたプランが思いつかない。でも受験するだけならタダという気持ちで応募することにしたが、当然のごとく落選。途中、学校の統廃合などもあって受験できないこともあったが、結局合格の2文字をもらえるまでに4回の挑戦を必要とした。受かったときは、どこか現実感に乏しいフワフワとした浮遊感のあるなんともいえない気持ちだった。詳しくは個人のブログにも書いてきたので、興味ある方はそちらを参照していただきたい。

派遣が決まってからは、とにかく生徒に深く広く教育効果を持って伝えるにはどうしたらいいのかということばかりが頭の中を占めていた。それを実現していく上で大事にしたことの1つが、ただ南極の生態系を伝えるのではなく、自分たちの身近な世界、生き物たちの織り成す姿がどうなっているのかというレイヤーを1枚差し挟むということだった。このレイヤーがあることによって、より一層南極の生態系が生徒の頭の中で際立つと考えたのである。

そしてもう1つ重要視したのが、生徒自身を”南極へ連れて行く”ということ。もちろん本当に彼らを南極の世界に連れて行くことはできない。だが、私が作る南極授業というコンテンツのただの受容者でいる位置から、一歩でも実施者側に近づけることによって、彼ら、そして周りの生徒に対する教育効果が何倍にも膨れ上がるのではないか。そのために、有珠山の生態系調査、身近なコケと微小動物、噴火湾の生き物たち、あるいは太陽高度と太陽光パネルの設置角度の検討など普段の授業や、部活動などあらゆる場面で南極とリンクさせられるような素材の準備を進めていった。加えて南極でしかできないことも組み込もうと、白夜を24時間撮影するための機械、すなわち赤道儀を自作するというプロジェクトにも取り組んだ。なお、事前準備を十分に忙しく取り組んでいたために、あまり実際に観測隊に参加してからも、その業務量や行動量に面食らわなかったのは副次的効果として良かったように思う。

こうした事前準備を通して、実際に南極観測隊に、そして南極の世界に飛び込むのだが、とにかく味わったことのない異世界にただただ圧倒され、感動の渦に巻き込まれ続けたというのが一番の印象である。氷山や氷海の姿にはじまり、オーロラ、ペンギンやアザラシなどの動物、地球の原始の姿を想像させるような壮大なスケールの景色、大氷河、氷床など、とにかく毎日が感動の連続。どうやったらこの世界をみんなに伝えられるのだろうと悩みながら毎日カメラのシャッターを切った。また生徒にとって展開性に富むよう、意識的に自分をフレームの中に入れることも心がけた。私がこの観測隊に参加する一番の意味は、生徒にとって身近な人が異世界にいるという文脈だと常々思っていた。そのためただ景色や動物の姿をフレームに収めるのではなく、そこに見知った人が写っていることによって、子どもたちへの伝わり方が重層的になると思い、普段は決してやらない自撮りも南極ではよくやるようにしていた。

そしてもう1つ強く感じたのが、感謝である。野外から昭和基地に戻ってさまざまな場所を取材していくと、いわゆる設営系の人たちは基地での生活を支障なく送れるよう、日夜どこにも行かず、自分の与えられた仕事に全うしていた。私が南極の世界に感動しているときも、こうした人たちは薄暗い屋内で作業をしていたり、油にまみれたりと、みんながイメージするような南極とは程遠い世界に従事していた。昭和基地は100人村である。誰が何をし、それによって生活がどうなっているのかが手に取るように分かる。これを見たときに、本当にありがたく決して不平など言ってはいけないと深く恥じ入ったことをよく覚えている。

多くの人に支えられて、私は南極を感じ、子どもたちに届ける仕事に邁進することができた。そのことに全身で感謝を伝えたい。ありがとうございました。